1943年
太平洋戦争末期 東京都世田谷区に生まれる。
1946年
熊本県天草の小さな島に疎開。
この時代の強烈な思い出は。実兄雄一郎が捕まえた魚、メバルを誤って逃がしてしまった事。いまだに申し訳なく思い、慙愧に堪えない。
1949年
メンコをやっていた時にビンで足を切り、医者に行ったが軍医上がりのいい加減な医者で
麻酔無しで縫われる。龍作、痛さと悔しさから思わず、「バガヤロー!」と叫ぶ。
家の庭では毎日、シャモを戦わせるギャンブルが開かれていた。
村外れでは、人々が食べるために牛や犬を連れて行き、蜜殺していた。小学校時代、龍作は神童と呼ばれる。
1951年
兵庫県宝塚市に引越。
教室で先生に将来の夢を聞かれ、「タカラヅカに入る」と答え、クラス中の失笑をかう。
1956年
大阪市東淀川区十三に引越。
中学2年。近所のテレビでポールアンカが日劇で歌っているのを初めて見て
それまで味わった事の無い異様な感動と衝撃を受ける。
神童の学力はガタ落ち。国語以外の教科は一切興味を示さず全く勉強しなくなる。
父親は龍作に期待を掛けていたため、家の外まで龍作を追い掛け回し説教。この時二人とも裸足。
1958年
大阪工業大学付属高校土木科に入学。高校1年の途中、横浜市戸塚区に引越。大森工業高校機械科に父のコネで編入。
卒業後、大井競馬場そばにあったトヨタ自動車に入社。給料が入っても、すぐ友達と飲み歩き3日で使い果たす。2年半で辞める。
1964年
風呂場の窓から、ジェット機の空に描く五輪の輪を見る。東京オリンピック。
その後、3〜4年間アルバイト生活。いわゆるフリーター。
1966年
石川播磨重工で雑用係のバイトをしている時、
先輩に広島県の遊郭に連れて行かれて童貞喪失。龍作23歳。お相手は30歳前後。
1967年
父親の「いい加減遊び歩くのはやめて、専門学校へでも行ったら」との薦めに
新聞にたまたま載っていた『セツ・モード・セミナー』に入学。
同期生に、元GAROの大野真澄氏、数期先輩に、イラストレーター故ペーター佐藤氏。
1968年
状況劇場や天井桟敷の制作の仕事をしていたペーター佐藤氏の紹介で、バイト代欲しさに高田馬場の劇場へ。
訳もわからず、踊りの稽古後、港区白金にあった白亜館に送られ、黒マントと頭に角をつけて踊らされる。
それは、奥村チヨ「恋の奴隷」の新曲発表会だった・・・。
バックダンサーのバイトをなんとか務めた後、ギャラを貰いに東横劇場の屋上へ。
そこでは数人の若者がサークルを組み、話し合いをしていた。
龍作「何をやってるんですか?」若者達「僕達はお芝居をやっているんです」龍作「じぁあ、混ぜてもらえませんか?」
・・・これが、深水龍作と東京KIDブラザースのメンバーとの出会い。
1969年
当時、物議を醸し出したロック・ミュージカル『ヘアー』に参加。
主演のバーガー役で絶賛される。が、公演はメンバー達の大麻吸引問題で途中で中止。
1970年
内田裕也氏らと共に、『100円コンサート』(日比谷野音)など、日本初期のロックイベントの企画制作を取り仕切る。
仲間で『ヘアー』全国公演決行。
1974年
東京KIDブラザースのアメリカ・イギリス公演に参加。
日米を股に暴れまわった深水龍作の事は、故永倉万治著ベストセラー『黄金バット』にて紹介。
1975年
ニューヨーク『カフェ・ラママ』のインターナショナルエキスペリメンタルシアター
アンドレ・シェルバン演出「トロイアの女」アメリカ・ヨーロッパ・中近東ツアーに参加。
1975年
11月東京KIDブラザースを離脱した実弟深水三章氏が、日本最初のロックミュージカル劇団『ミスタースリムカンパニー』を旗揚げ。
海外ツアーより帰国後すぐ『ミスタースリムカンパニー』に作・演出家・俳優として参加。
劇団は、当時の若者達の鬱屈したエネルギーに共鳴し、絶賛を浴びる。
1980年
演劇界の風雲児として、時代のメタファーとなる。『ミスタースリムカンパニー』全国ツアー。
以後、劇団の主宰者として、現在に至る。
1994年
入江寛氏と『HUNDRED』結成。以後、月1回のペースでライヴ活動を続ける。
2000年
劇団創立25周年。
2001年
新生・怪優 深水龍作 誕生。
2003年
大口広司氏と『DEEP MOUTH』結成。
2005年
劇団創立30周年。
2007年
アコースティックユニット「ぐ」結成。以後、代々木ARTICAを拠点に月1回のペースでライヴ活動を続ける。